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幸田文 「きもの帖」 [読んだ本]

私の着物熱は、まあまあ古いのですが、その基礎になったのが、幸田文氏の「きもの」という小説です。

その中に、「絹の顔」「木綿の顔」という言葉が出てきて、強い衝撃を受けました。笑

それから、かなりたちましたが。今回読んだ本が、 「きもの帖」です。今更ですが、随筆はあまり読まないので、今更です。

kimono8.jpg

画像は、今年の正月に着た仕立て下ろしの紬です。

普段、結構本は読んでいるのですが、わざわざ、お知らせするほど、の本も・・・いっぱいあるのですが(笑)、この本は、着物ということで。

まず、「きもの」という小説が、私に与えた影響は、はかり知れません。明治後期から大正にかけて、一般の家庭で、洗い張りをしたり、普段着る着物は、季節ごとの衣替えにお母さんが家族の分を縫っていたということが、いたるところに書かれて言いますが、

その時に、「着物は専門家に仕立ててももらうもの。」という常識を覆されました。

もちろん、式服や、公の場所に出ていくときの「ちゃんとした」着物は、仕立ててもらったほうが、安心だけど、

自分で仕立てる場合、首の後ろの襟の幅と、みぞおちの襟の幅、腰回りの襟の幅を、好みに変えられたりします。

それは、着ていて着心地がいいのもそうだけれど、何より、反物さえ、上手に買えば、驚くほど、安く自分のサイズの着物が仕立てられる手軽さ。

これは、今、着物を着る人が増えていますが、いまいち、ものすごく増えない原因の一つが、自分で仕立てられない、と思ってしまうことだともうのです。

私も何枚も、下手な縫い方をした着物がありましたが、ほどいて、何度も縫い直しました。それは、痩せたり、体型が変わったりすると、ぶかぶか部分を狭めたり、逆にゆったり着たい部分を広げたりできます。

とまあ、自分で着物を縫うことを、くどくど言いましたが、今回の 「きもの帖」は、その中で、印象的な部分が少なからずありました。

色彩感覚として、幸田文さんの説にすべて同意はできませんが(笑)、

「齢」というエッセイの中に、年齢不詳の百合子さんという方が出てきます。

その方が、若作りで、幸田家の家政婦のとてさんという方に、あなどられて、不調法なことがあったりして、

「自分にできないことを人がすると鼻もとだけの思案もしないうちからすぐ笑ってみせたり羨んでみたりする。失礼だがおまえさん、もしかしたら私にこの着物が似あうか似あわないかさえ、はっきりしらないんじゃないか。」

「ひとはじみなものをは着られてもはでなものは着にくいものだ。私がいくら型通りでないにんげんだからといって無考えにきているわけじゃない。」

という部分がありました。

ここで、胸のつかえがすーと、とれた気がしました。

そのあと、文子氏に言った言葉が、

「若い人はともかく中年から上の人は、着物も着物も窮屈な型のなかでしばびていていいんでしょうか。いくら型好きな人でも、ちょっと頭をあげて見れば型にも破格の型があることに気がつく筈です。坊さんなら膏ぎった男でも紫を着る、喜寿のじじばばは赤を着る。揃い浴衣ともなれば素人でも、背なか一杯に鬼の寒念仏が染めてあっても恥ずかしくない。折角の日本キモノをもっと自在に活用しないのは情けないじゃありませんか。」

でした。

(語弊があるといけませんが、きものを自在に活用という点で、洋服への仕立て直しは断固反対です。自分で買った着物だから、何しようが勝手だと、思われるかもしれませんが、折角、バラせば、ほかの人も、着物として着られるのに、絹ものを変に民芸的調のちょいちょい着にされるのを、私は悲しく見ています。着物を命を奪っていると思うからです。燃えるゴミに出さない限り、着物の命は、心配しなくても続いていくと思うのです。(次に着る人のことを考えて)無駄な布をなるべく出さないように断ち切るのが、仕立てる人間の心だと思うからです。)

この通りですが、何でも着ればいいとは思いません。たとえば、式服には決まりがあったほうがいいし、着物の形も、一応の型があったほうが、おもしろい、その中で、色、柄、寸法などを工夫して、自分に似合うように着ることが、きものの面白さなのだと思います。

変にペラペラの出来合いの浴衣とか、ミニ丈の浴衣とか何でもあっていいけれど、自分で工夫していないから、なんか安っぽく見えてしまいます。

それでもいいと思っているなら、そのまま自分の品を落として似合うように着ればいいけれど、

私の中には、いまだに「絹の顔」、「木綿の顔」が強く残っていて、自分は「絹の顔」の家に生まれついていないけれど、その心を、気高く持っていたいと着物の時は思うのです。

だから、百合子さんが、似合うようにはでなものを着ていることに、喝采を送りたくなるのは、自分の価値観を信じているという、着物を着る前提をしっかりわかっているからだと思いました。


2012-11-21 11:46  nice!(9)  コメント(6)  トラックバック(0) 
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コメント 6

nano

露伴の次女って流れで
大昔に読んだ記憶も・・・・
すっかり忘れてますがヾ(´▽`;)ゝ
by nano (2012-11-21 14:39) 

whitered

幸田文さんの「きもの帖」は、まだ読んでいません。「流れる」「たんすの引きだし」は読んだかな。文さんはきものを着る人、愛する人のお手本ですね。
現実的には、やはり地味な色合いに落ち着いてしまいます。というより、似合わなくなっています。
by whitered (2012-11-22 08:43) 

koji

nano さん。
まいどです!コメントありがとうございます!
はい。彼女のエッセイは、あまり押しつけがましくないので、いいですね。
羊羹は、トラヤじゃないといけない、とか
いわれると、じゃあ、ほかの店のはだめなのか?と反発したくなります。笑
それはともかく、なかなか、思慮深くかかれた文章は、読んでいても気分がいいですね。(#^.^#)
by koji (2012-11-22 09:55) 

koji

whitered さん。
まいどです!コメントありがとうございます(#^.^#)
そうですね。私にとっては少し、前時代的な感覚ですが、それでも、着物に関して知らないことが、いろいろ出てくると、わくわくしながら読んでしまいます。
さらに、何気ない、着物にまつわる話は、読んでいて、楽しくなりますね。
whitered は、お写真を拝見する限り、”自分に合う着方”を見つけていらっしゃると、思っていますよ!
似合わなくなってきたと思われるのは、なぜなんでしょうね~?素敵にお召しになっているのに!
by koji (2012-11-22 10:00) 

Akira

着物は奥が深いですね…
自分に似合うものを着たいけれど、様式美もあり。
今どきの若い子の浴衣とかはもってのほかだけれど^^;

by Akira (2012-11-22 22:03) 

koji

Akira さん。
まいどです!コメントありがとうございます!
そうですね。奥が深いというか、まだまだ、いろいろ工夫する余地がある衣装なんだと思います。
形的には、結構単純なので、それを着るときに立体的にするとき、どうやって、体に沿わせるかで、同じ着物でも、結構印象が変わってくることがあります。そういった点で、似合うもの、似合わないものというのも出てくると思います。基本的には、顏映りの良いものが、似合う着物で、顔前には、鏡の前で、反物を肩から下げてみるのがいいと思います。笑
で、自分が好きな感じだっから、誰が何と言おうと似合っているし、なんか違うと思うなら、やはりにあっていたいのだと思います。
若い方たちの浴衣・・・夏にちらっと着てあとは、さよなら、というもののようですね。私は、短すぎる着物は、「ああ、布が十分買えなかったのね、あんなにつんつるてんで・・・」という風にみてしまいます。固定観念過ぎてだめですね。笑
by koji (2012-11-25 08:48) 

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